僕の考える高校生に向けた祝辞
Updated Date: 2024/01/01 02:55
中高生の心に響く祝辞ってなんだろうかと、春の訪れとともにふと思った。もちろんどんな場面でもPTA会長や校長先生、担任の先生の言葉は大人側になった今ならすごく気持ちがわかる。だが当時学生だった僕がどれほど彼らの言葉を理解していただろうか。多分それは、彼らの言葉を今は全く覚えてない僕が一番良く体験している。(つまり、忘れる程度には心に残っていないということ)
じゃあ、もし僕が「高校生相手にガチで覚えてもらえるような面白くてためになる深い話をする」としたとき、どういう話をするだろう。今回はそれを考えてみることにした。
あなたは何者ですか?
早速「カイゼン・ジャーニー」からのパクリではあるが、これをまず話そうかと思った。
ユーモアのある人は「果物」とか「生き物」とか言うだろうけど、要するにこれは人間の命題の1つではないだろうか。
例えば、人はいずれ死ぬ。大体の人は親が先に死ぬ。そして多くの場合それらの死に立ち会ったとき、自分の人生に対して振り返るだろう。自分は何をしてきただろうか、満足行く人生だっただろうか、自分とはどういう存在だっただろうかと。……というのが命題である理由である。
命題を考えるにあたり早すぎることはない。どうせ人生が終わりにならなければ答えなぞ一生出てこないのだから。とはいえ逆に高校時点で考えても意味がないのも確かではある。でもやっぱりこれほど面白いネタはないのではないだろうか。
ちなみに、「何者か」という問いには2つの答がある。
1つは社会的に与えられたなにか、もう一つは自分が思うなにかだ。
前者はとてもわかり易い。学生であれば「学生」、社会人であれば「社会人」。男性であれば「男性」。社長なら「CEO」など社会的にくくられるポジションである。ただ後者に関しては答えを持ってる社会人もそんなにいないんじゃないかと思う。
「自分が思うこと」ってのは置かれた環境や状況などその時々での感情や価値観んい影響されることは多いハズで、一定の、これは自分の人生で少したりとも変わったことなんてないぞ?というものはなかなか残らないのではないだろうか。これを問い続けることが「自分が何を思うか」ということだと考えている。
挫折をしよう
次にこれ。人生においてすべからく成功、すべてが順調なんてことは絶対にない(確率的にあるかもしれないが、絶対とは言えないはず)
一度でも挫折をすると、自分の限界やできないことや社会的な価値というのに否が応でも向き合わなければならなくなる。つまり、挫折をすることで自分と向き合える時間を強制的に作ることができる。
要は前章で述べた「自分って何者」を考えるうえで挫折をするというのはとても良い材料になる。
また、挫折するタイミングも大事かなと思ってる。
小学生の時、お金が足りなくて買えなかったオモチャ、ゲームなどは誰でも経験があると思う。お金でなくてもいい。知識が足りずにできなかったこと、ルールが邪魔してできなかったことなどなんでもいい。その挫折って10年後あたりに思い返したときにどれだけ鮮明に記憶に残っているだろうか。多分、大したことない。
しかしながら、「いつも一緒だったあの子とさよならした」だとか「些細なことで話さなくなった友人」だとか「長年続けたスポーツや習い事で失敗した」という経験はある程度記憶に残るのではないだろうか。
この違いって結局のところ継続した期間だったり自分の思い出に根強く残っていたりするという部分だ。この要素を含んだ挫折があればあるほど自分に対して本気で向き合える時間を作ることができると思っている。ただし、それと同時に傷は深くなるし向き合うことの苦しみも増える。あとはそれをどう、自分がコントロールするかだ。
諦めよう
挫折を知った上で次にできることは「諦める」である。
人間は思った以上に「特別な存在」なんていない。自分を含めて。
マイケル・サンデル氏やウォーレン・バフェット氏も言っているように 「人生は運」 で決まるところもとても多い。
ここでいう運というのは、例えば生まれた場所、性別、両親、家の裕福度、社会情勢、時代など自分が選択しようのない条件が「偶然良い方に揃った」場合のことである。
考えてもみてほしい。自分の人生で自分が選択できる選択肢のほうが少ない。しかもその数少ない選択肢を選んだ挙げ句それが正しかったかどうかなんて検証のしようがない。別の選択肢をそのときにもう一度選ぶということが不可能なのだから。
だから、ある意味人生をある程度諦めることはとても大事である。
多くの著名人や成功者もきっと色々諦めている。その結果「それでも、自分が少なからず社会に、誰かに貢献できる分野の残滓でなんとか生きるという決断」をしているのである。ちなみにこのような表現は落合陽一氏がよく使っているので、彼のnoteを見たほうがきっと理解するうえでは一番手っ取り早い。
https://note.com/ochyai/n/n673b70abb063
早い段階で中二病を患いつつも人生を諦めてしまおう。そうすることで世界に、人に対して優しくなれる。これはマジだ。なぜなら僕自身それをおっさんになってすごく体感しているからだ。
よく「若い頃はイケイケだった人が老人になると急に優しくなる」っていうものの正体はこれじゃないかと若干思っている。
点と点をつなぐ
最後はご存知スティーブ・ジョブズ氏の言葉をパクる。
多くの経験は、1つ1つは記憶の断片んだったり生きた証跡だったりして関連性を生み出さない。だが、ふと人生を振り返ったときに残っているものは、結局その点をつないで歩んできた道だけである。
その道こそが自分の人生なのだから、それを考慮して生きる以外に方法はないのである。
若いからこそ、自分の選択が正しいかなんてわかりっこない。ただそのときに精一杯の分析と根拠を検討したうえで選ぶか、適当に選ぶかの違いしかない。そしてどちらの方法で選んだにせよ、その選択を後悔しないということを意識しなければならない。
人は煩悩の塊だ。いつだって過去に戻ってやり直せたらと考えることもできるし、妄想の中で課題をクリアした自分を想像して強くなることだってできる。ただし現代科学では絶対に過去に戻ることはできない。
楽しい過去を作る。それだけのために生きたってなんの問題もない。
まとめ
兎にも角にもこれらを実践するためにはまず「生きる」ことが大事だ。 なんのために生きているのか、なぜ働くのか、なぜ勉強するのか。。。そんなことは2の次でいい。まずは生きる。生きててすげえなと感じる。他の色々な要素は勝手についてくる。「運」とともに。その過程で自分にはどうにもできない諦めと挫折を経験しながら、1つ1つの軌跡が勝手に人生になっていく。そんなもんだと思う。
なので、まずは今日も生きてるな……と感じながら明日も生きればいい。以上。