リアルシステム改善ゲーム
Updated Date: 2024/01/01 14:47
知恵の輪はなぜみんな挑戦するのか
小さな頃、2つ繋がった金属の、面白い形をした遊び道具に夢中になった記憶はないだろうか。 ガチャガチャと音を立て、取れそうで取れない、知恵の輪と言われあれだ。
知恵の輪については、回答を大抵だれも知らないし、できたとしてもそれをもう一度手順どおりにやれるかというとそうでもない。 だから、沢山の人はとにかく色々な組み合わせや失敗を繰り返していつの間にかゴールに辿り着く。 そして子どもも大人も、大きな達成感を持って満足する。 もしできなかったとしても、最初こそフラストレーションが溜まるだろうが、それが継続することはあまりないだろう。
不思議な事だと思わないだろうか。 僕ら大人は仕事でも、行く先の分からない問題や課題に対して色々と考え、対策・行動し、その結果を評価して次に繋げる。 いわゆるPDCAのサイクルを回しているはずなのに、やれ仕事は辛いだの面白くないだのという感情が湧くし、 その状態が長く続けば続くほどイライラも募れば精神的に参ることもある。 多くの人は、そこに楽しみや笑顔を以てチャレンジするという知恵の輪と同じワクワク感を感じ得ないのではないだろうか。
システムの改善についても同じである。目の前にあるレガシーなコード。 なぜその仕様になったのかもはや誰も知らない機能。 処理効率が悪くレスポンス遅延やメモリの圧迫の原因となっているアルゴリズムなどなど…… もちろんそれが明確に分かっていれば少しはマシかもしれない。 しかし、与えられた情報が唯一「システム改善しよう」というものだけの場合はどうだろう。
インフラに明るいわけでもなければ本格的に問題となっている部分もわからない。 何が仕様か誤りか、正しさの判断もままならない状況である場合、 燃え上がる情熱をもってどんどんリファクタリングを進めていきたいとしても、 ただただ暗中模索の航海に出るプログラマには、知恵の輪の喜びよりも不安と苦悩しか残っていないだろう。
どうしてこのような状況に陥ってしまうのだろうか。
目標と過程のバランス
僕が思うのは、知恵の輪には明確なゴール(目標)が存在していて、それを達成するまでの過程が、 評価や次の手の選択肢の対象とならない点にあるということだ。
色々な仕事や上述したシステム改善の場合、 まずゴールが遠く霞んで見えない。母をたずねて三千里でも三千里探せば母が見つかるというのであれば、 頑張って探そうと思うだろうけど、高すぎる目標に向かってひとつひとつ着地点を探しながら進んでいくというのは、 誰もができるというスキルではない。 経営目標においても大抵は中期経営計画を立てるし、最終的な目標に向かっては期首方針だったり 半期目標を立てて売上や利益の予算を確保するだろう。 それは、誰もが共有できる目標を数値的に明確にすることが重要だということが分かっているからだ。
仕事も同じでいいんじゃないだろうか。 それをリーダーが決めるものであっても良いだろうし、チームが集まって1つの届きそうな目標を作るのでもよい。 ひとまず目に見えない目標を、ブレークダウンしておき、そこからまず何をすべきかを議論するという過程を踏むだけでも 人はそれぞれやるべきことを見つけようと考えることはできる。 問題はまずそこに向かうための道標をどうやって作り上げていくかだ。
チャレンジ精神と挫折
大人になるにつれチャレンジ精神が無くなってしまうのにはいくつかの理由があるらしい。
例えば、大人は経験したことが多くなることで、類似する事象や問題にぶつかってもそこに目新しさを感じなくなり、 ワクワクする気持ちが湧かなくなってしまうということ。他には、単純に年令を重ねることで思考する努力が辛くなるというものだ。 また、様々なチャレンジを続けてきても良い結果が出ずに挫折を繰り返してきた人の場合、 チャレンジすることそのものへの恐怖心が生まれてしまい、どうせやってもどうしようもないという気持ちが大きくなるパターンもある。
挫折は人にPTSDのように、心に残って長らく傷をつける。 人生経験が多くなればなるほど挫折の経験も増えるし、傷も増える。 多くの場合挫折から立ち直るきっかけは、次の成功を見つけたり別の喜びや幸せを見つけたりしたときだ。 ひたむきに同じ問題に向かい続けるということは、世界最高のトップアスリートであってもそこから打開し、 乗り越えて次のステップに進むまでの苦悩・苦労は大きなものがあると思う。 そうであれば、その辺で働く普通の会社員の抱える苦労も、問題の本質は違えども質量的には同じものであると言っても過言ではない。
ただ、いずれにせよ問題の解決としては、やはり様々な方法にチャレンジし、 自分の抱えたそれらに対して興味とチャレンジ精神を失わず取り組んでいくことであろう。 そして中間目標を設定することは、大きな問題を細かく分割し一歩一歩進むべき、大変役に立つ。 挫折は、自分の持つ問題と直接向き合えるチャンスだ。
考えることを避けたい理由
職場で新しいことを始めたいとか、ちょっとした仕組み上の問題に気づいた時、 上司や同僚に相談しても「止めた方が良い」とか「それには障壁が大きすぎる」とかの消極的意見をもらうことはないだろうか。 大抵の場合、それはその先に待ち受けている未曾有のリスクや変化に対する恐怖と不安から来ているんだと解釈して良いと思う。 とはいえ、相談した内容が、実は本質的に取り組むべきことは別にあり、そのステップを飛び越えるような突拍子もない発想だったり、 そもそも組織の権限や責任を超えたより広義に捉えなければならない問題だったりするかもしれない。 ただ、このときにもし前提条件や最初にやるべきことの助言や情報提供を受けることができていない場合は心配したほうがいい。 なぜなら、問題に取り掛かること自体を「臭いものには蓋」という状況で封じ込めようとしている可能性があるからだ。
多くの人は自分の責任について、目に見えないリスク(他人の何かや自分の想定外の事象など)を負ってしまうのを極力避けたいと思っている。 そうでなければ誰もが自分が苦労する道であったとしても敢えてそれを選択しようと考えるだろうし、 慈愛に満ちた心を持って、自己を捨てても誰かのために行動することを誠道と誰もが実践するはずだ。 でも、それを常に正しいと思い行動できる人間はそんなにいない。誰もがどこかで自分のために生きている。 会社の中に組織があるのも特定個人にかかる責任を分散させる意味もあるし、そもそも会社そのものの構造も株式であればそれと同等である。 それに大人になると自分の子供や親、友人や恋人、妻や夫、部下や上司など色々自分以外に考えなくてはならない物事が増えてくる。 それだけでも精一杯なのに、これ以上見えないリスクに対してあーだこーだと思考を巡らせることを好き好んでやるだろうか。 まぁ、しないだろう。これが考えることを避ける1つの理由である。 そして大人になればなるほどこのクセはどんどんひどくなっていく。 (ちなみに定年退職後は考えることが一気に色々と無くなるため、それはそれで、今後何を考えればよいか分からなくなる人も増えるらしい)
ここで問題なのは、考えることをやめてしまったことにより、 そもそもの問題提起から発生するリスクの、その先にあるはずの明るい未来や物事の本質が見えなくなってしまうことだ。 考えることに消極的になればなるほど、長期的な視野が失われてしまい、目下今目の前にある問題ばかりに注視してしまい、 「本当にやるべきこと」にいたるまで遠回りをしたり、間違いを犯し続けたりする。 もちろん、沢山間違えて少しずつ起動を修正し、そこへ到達するための道のりを地道に模索し続けるという行為自体は、 先述したとおり中間目標を都度クリアしていくこととなるため、問題ない進み方だといえる。 そう、まずは間違いであっても、それがリスクであっても、結果的に正しいと思えることであるのならまずは行動するという気持ちが大切なのである。
脱出ゲームと数学的組み合わせ
さぁ、前に進む決心はついただろうか。まずは考えてみよう。未来は見えただろうか。 いや、きっとすぐにある問題にぶつかってしまうだろう。
ゲームのジャンルには「脱出ゲーム」というものがあるのをご存知だろうか。 これは、あらかじめ用意されたアイテムや仕掛けについて、色々と組み合わせたり、なぞなぞを解いたり、 発送の転換や試行錯誤を繰り返すことで前に進んでいくというゲームである。最終的にはゲーム内の密室から脱出することが目的である。
現実社会もこれに近い。ただし、答えは決まっているのだけど、その答えを決める要素が未知数である点において、有限である脱出ゲームと異なっている。 だから僕らはいつも人生に迷う。本当に正しいのかどうかもわからないまま日々選択する。 数学的に言えば、脱出ゲームはアイテム数と仕掛けの数の乗数でその組み合わせの数が決まるわけだけど、 ことに人生においては有限数であること自体が稀なのだ。
では、その選択が正しいかどうかの判断が毎回必要となった場合、どうやって評価すればよいだろうか。 当たり前のことなんだけど、組み合わせの数が定まっていて、かつ少数であればあるほど、 多くの人の意見を収集してもある程度収束した特定の答えを導けるはずだ。 そしてそれは、道徳・常識・マナーという言葉を以て現実社会に存在している。 実際僕らも無意識にそれを考えて、行動していると言っても過言ではない。いわば自分の信念に従って行動していることになる。
見えざる問題が抱えるそのまた問題
組み合わせの数が多ければ多いほど、考えたことの正当性が評価しづらく、自分の信念で行動するということは既に述べたとおりだ。 次は組み合わせが無限である状況、つまり先の見えない状況というものが、どういう結果を生み出すかを考えてみたい。
テレビで芸能人が目隠しされて、箱に手を突っ込んで中に入っているモノを当てるというバラエティ企画を観たことがあるだろうか。 見えない問題が生む問題というのは、つまりそいういうことだ。 多くの人は視覚情報に物事の判断を頼っているため、それがなくなると一気に不安と恐怖を覚えてしまう。 つまり、見えない状況が生む問題とは、恐怖なのだ。誰だってそんなものを経験したくないし感じたくはない。 だったら見えるようにすればいいだけの話なんだというのも、すごく簡単にわかることだ。 でも、なぜか組織の意思決定の場ではそれが見えないままに終わることのほうが多い。なぜなんだろう。 見えざる問題が、恐怖を生んで、さらにその恐怖から別の問題を作り上げていく…… まるで噂話がどんどん広まった結果、色々な尾ひれのついた怪談話さながらの状況である。 こうなってしまうともはや単純に問題を解決するだけの行動では済まなくなり、 まずは問題の大きさやその正当性、対応可否ややること、やらないことの取捨選択を始めなくちゃならなくなる。 恐怖の期間(問題が見えなくなってからの期間)が長ければ長いほど、この作業にかかる時間も比例して増えていくことになる。
そしてダメになる
ここまでくるともうダメだ。 企業や組織内に蔓延した恐怖を打ち消すために、数年がかりで啓蒙活動をせねばなるまい。 キリストや仏教の教祖たちが行ったように、信じる者は救われることを説き続けて、本来あるべき社会と人との関わり方を取り戻さなければならないのだ。 そして我々は彼らのように特別な人間ではない事のほうが圧倒的に多い。 だからもし誰かが特別なリーダーシップを発揮したとしても、成功率の高さから言えば大したことはないっていうのも誰にだって分かる。 恐怖はすべてを奪っていく。本来は蟻のように小さな出来事だったとしても……。
一度ダメになってしまうと圧倒的な教祖が現れるまではしばらく恐怖と隣合わせのまま生活しなくちゃいけなくなる。 企業での場合は恐怖のまま仕事をしなきゃいけなくなる。 何も変わらない現状に嘆きながら。何もできない現状に不満を持ちながら……。 こうなる前に、僕ら組織の人間は何かできることはなかっただろうか。答えはもう、出ているはずだ。
崩壊を防ぐ行動
一度ダメになった組織を立て直すのは簡単なことではない。 習慣とは怖いもので、一旦身に染み付いてしまうとそれを捨てようとすることができなくなってしまう。 (思い出の品、幼少期からのクセ、その他もろもろ)
そこで、僕なりの考えを述べたいと思。。 大切なのは立場上で明らかに違うであろうたった2つの視点だ。
チーム(組織の)リーダー
- 問題の本質をみる努力を怠らない(俯瞰的視野、客観的立場)
- その上でロードマップを描く(チームの明確なゴール、理念)
- 各人、各ポイントにおける目標を選定する(役割の分担、TODOの設定)
組織のメンバー
- リーダーの指示のもと、自分たちのすべきことを洗い出す
- それを評価し、一定の基準を作る(自分、他人の区別なく物事が判断できるようなものがベスト)
- リーダーにやってもらうのは、あくまで道筋を描いてもらうことだけという点に注意する
組織はリーダーの考える行動をみながら、正しさと過ちの差を認識する。そのためそれをフィードバックする。リーダーも素直にそれを聞く。そして組織は丸くなる。一丸となる。物事はすべて透明になる。 つまりそこには、誰かに依存したり誰かしかわからないような情報だったりする状況がなくなる。みんなが同じラインに立てる。 役職や役割があったとしても、それは仕事上の仕事の割当てに過ぎない。共有すべき事象が明らかだからこそ、1つの仕事に対して答えや取り組み方も自然と共通化してくるはずだ。
失敗できる時間と場を作る
そもそも失敗は恐怖ではない。見えない問題を生むことのほうがおおいに恐怖だ。 そして不安とは失敗から生まれるわけではない。失敗したリスクや新しく生まれる問題に対して抱くものだ。 だったら、それらをカバーできる場を作ることが最善であるといえるだろう。
また、失敗したとしても責任を誰かに求めてはならない。それらは組織で分散すれば良い。 そのためには組織は1つの決定を民主主義的に下すことになるが、 この手法が必ずしも正しいとは限らない。臨機応変に権利や決定権を移すことはもちろんなのだが、 重要なのはそこにルールを定義することだ。 そうでなければ、おそらく、例外ケースや特別措置などの対応時による責任の押し付け合いに発展し、 組織的な行動よりも軋轢と、摩擦が生じることとなる。社内で取り決められたルールは法律であり、組織はそれに従う義務がある。
他にも、組織のメンバーが取り組む意思を表明してくれた物事をすぐに否定するのではなく、失敗する時間を作ることも大切だ。 物事にはすべて行動が伴う。行動は、人それぞれかかる時間の割合が異なる。 1分でランチメニューを選ぶ人もいれば、10分掛かる人もいる。そこを意識してそれぞれのメンバーがチャレンジできる時間を作る。 たとえそれが失敗であったとしても、それをカバーできる時間を後から捻出できる仕組みを作ることで問題は無くなる。 これは、リーダーもしくは組織全体のプロジェクト計画ではただのタスク管理の1つだ。 だからこの場を作るのは、本来であれば何の苦労もないはずだ。 もちろんお客や別組織に対してそのリスクを説明すべき場面は多々あるだろう。 リスクテイクなくして成長の機会はない。市場だってそうなんだから、組織もまたそれを甘受する度胸も必要だと考えている。
いつも何度でも
何度でも問い直そう。正しいことは何なのか。 目を背けている問題は恐怖になり得ないか。 立ち止まっても良い。その時間が恐怖に打ち勝つものであれば。
いつだってワクワクしよう。失敗は怖くない。 正しさの先にある本当にやりたかったことに手を付けよう。 そうすることで、またさらに幸せになれる。組織は見えない問題の恐怖を抱えることもない。 全てはオールクリアーだ。チームはこうやって一つになる。 組織はこうやって健全なサイクルを回し、それぞれが正しさの名のもとに行動するようになる。 不安や恐怖はない。そこにあるのは喜びだ。 なんだかJoy,Inc.みたいな結論だが、言い訳をすると真似をしようとしたわけではなく僕が思ってる組織の透明性が、たまたまメンローイノベーションズの理念に近いというだけで、アプローチが全く一緒というわけではないしパクろうと考えているわけでもない。
で、ここの主題で使っている言葉が、「いつも何度でも」はスタジオジブリ作品の千と千尋の神隠しのメイン曲と同じタイトルだと気づいた人もいるだろう。 そういう人は、ぜひ曲の歌詞を思い出してほしい。 この歌自体は人と人の出会いや別れ、人生における成功や失敗、生と死をテーマにしているんだと僕は思ってる。 仕事も大抵の人にとっては人生の一部だ。わざわざそれを人生から切り離して考えるより、 心躍る夢を叶えようと自分で行動したほうが楽しいに違いないと、僕は今でも思ってる。