企業におけるフェーズの違い
Updated Date: 2024/01/01 02:55
社会人歴が15年に達するあたりで、僕は2回も転職している。IT界隈ではこれでも少ない方ではあるが、世間一般からみるとまあまあな回数である。一応毎回の転職ではそれとなく理由を付けて転職先を選んでいるんだけれど、その基準の1つが企業のフェーズ感だ。
フェーズとは
スタートアップに属していたりある程度経営や管理に詳しい人ならば説明不要だと思うが、ここでは一応僕がフェーズについてこう思ってるというのを書いてみる。
フェーズとは、企業の置かれた経営規模的な立ち位置のことを指している。
たとえばまだ最初の資金調達を始めたばかりのスタートアップはシリーズAとかいうフェーズに置かれるわけで、この頃はまだまだサービス認知が始まり事業をスタートさせたみたいな感じである。なので余裕の赤字経営であることが多く企業の組織もまだまだ小さい感じでイケイケドンドン的な何かを持っていることが多い。
これから更に資金調達したり組織が100人を超えたりするフェーズではシリーズBだとかシリーズCだとか言われる。俗に言う上場を目標にしたベンチャー企業がこのあたりに入る。
これより先は群雄割拠で、従業員1万人超の大企業や、フランチャイズ含めた全国店舗数が数万店舗だとかいう大所帯までいろんなフェーズの企業になる。ただし、だいたいは役割が縦割りされ、適材適所の人員配置と中央集権的な統制やトップダウンによる意思決定が目立ってくる。
まぁこんな感じで、会社の人の数やら店舗やら資金やら売上・利益の桁とかで大体の企業のフェーズ感みたいなのは別れてくる。
フェーズでの違いを考える
ここ数年でなぜか色々な企業とお話する機会を得た。なので僕自身のキャリアプランも色々考えたし、それがどう、社会や企業にアピールできるかとか活かせるかとかマッチするかみたいなところも結構考えた。いろんなフェーズの企業が抱える課題や悩みとか、どういうタイプのエンジニアを要求してるかみたいなのはカジュアルな会話の中でもある程度把握できるようにはなった。
当たり前なのだが、フェーズ感でいうと初期の段階の企業は爆発的な推進剤を欲している。誤解を生む言い方をすれば、品質納期よりもスピード狂という感じである。ここにおいてはある程度マネジメントも自走しなければならないので、ガチのスーパーマンが必要とされるか、1人の落ち着いたマネージャーの下で自由に暴れまわる最強の園児ニアかみたいな選択肢になる。
そしてこのフェーズの企業にありがちなのが先月決めた目標がひっくり返るような施策を今月やらなきゃいけないレベルにアジャイルであることである。これってなにかっていうと、Googleやらその他大手のベンチャーがやってるOKRを3ヶ月というスパンで回すことさえもツラみになるということだ。意外とこれを前提としてもらえるような人がいないので、個人的にはもっと広く伝えたい。(例えばユニコーン企業の秘密には、「モノホンのシリコンバレーのスタートアップはスクラムやってない」とばっちり書かれている。要するに体系化された儀式や仕組みよりももっと大事なこと、やらなければならないことがスタートアップには存在するのである)
小さな企業のアドバイザーに大手経験者しかいない場合このあたりで文化が破壊される。これは確かHARD THINGSでベン・ホロウィッツ氏も確か書いていた。野心や野望は正しい方向のものを使うということで、そのフェーズにあったやり方というのはそのフェーズを体験したり経験したりした人にしかわからないものがあるというのは、まぁよく分かる話だ。(もちろん大手経験者でもスタートアップをうまく回せる人は存在するだろうが、それを見極めるのが重要ということ)
結局組織次第
どんな書籍でもどんな業界でも答えは他社には絶対になくて、それは当の企業や組織の中にある。 だからこそそこに所属している人たちは評論家になるのではなく実践して仮定と評価を繰り返しながら失敗やら成功やらを判断して良い感じにしていかなきゃいけない。これがいわゆる自走力だとか自律的行動だとか、リーダーシップという言葉に言い換えられるんだけど、ここでもまた「リーダーシップとは指示を出すことだ」みたいな強めのリーダーシップをイメージする人もいれば「気づきを与えてできるだけ考えてもらい行動を促すことだ」というサーヴァント的なリーダーシップをイメージする人もいる。つまりこれは日本語や英語でもなんでもいいけど、行動や思考を言語化する際に発生する不可逆変換の差異が人と人との認識の差異も生んでしまうのではなかろうか。
定性的な表現であったとしても言葉になった時点で受け取り具合が変わるのであれば、それが変わらない方法ってやっぱり行動しかありえないのである。常に同じ価値観と判断基準で行動し続けるリーダーがいれば、言語化されていなくともそれに倣ってメンバーは行動するはずである。そして誤った行動や思考に対して正しい事例を局所的に指摘していけば、これもまたドキュメントがなくてもある程度は修正することができるはずである。
これを如実に表している主な例が宗教における経典かもしれない。新約聖書とかには信者の行動指針が多く書かれているわけで、あれを読み込めばある程度までは「正しい行動」ができるだろう。しかしながら言葉の捉え方により変わる判断を人それぞれに委ねられている以上、正しさの判断もまた1つではないことになる。だからこそやたら詳しく正しさを説明するために、新約聖書はそれなりに分厚い本になっているのではないだろうか。それでも100%でないので、聖職者が道標を示すみたいなことをやって一律の方向性を構築するのではないだろうか。なんて思う。
言うなれば組織も突き詰めていけば1つの宗教団体なんだろうなー。
だから和から外れると公開処刑されたり、首を切られたり、余計な精神ダメージが生まれるんだろう。
自分が信仰したい宗教、そしてそれに付随するフェーズ感。。これらをいかに自分とマッチしているかどうかで考えられるかが意外と転職の極意かもしれない。(宗教に例えたけど、別の例え方を考えればスポーツでもよい。野球が上手い人がサッカーに突然転身できるかと言いえばそうではないよね、という感じで)